「ヤンチャごころ」で⼀歩⾶び出す勇気を
〜伸びしろへの挑戦が100 年続く成⻑のDNA〜

広報室の平岡三季です。2021 年に創業100 周年を迎えるタカラベルモントの、業界や社会を驚かせてきたエポックメイキングなストーリーを代表取締役社⻑・吉川秀隆に取材して来ました。創業から1 世紀に渡って伝承されてきた、挑戦者魂に溢れたタカラベルモントのDNA をご紹介致します。

部品⼯場からものづくりメーカーへの転⾝。⼿を加えることで⽣まれる新しい価値。

代表取締役社⻑・吉川秀隆

事業を⽀える油圧シリンダーと共に

⼤正時代の話ですが、タカラベルモント初代社⻑の吉川秀信がまだ10 代の頃に鋳物屋へ丁稚奉公しました。そこで、「どんな形でも⾃由⾃在に作れる」という鋳物の魅⼒に気づき、「これを⾃分でやったらいけるのでは︕」と考えたことが当社の起源です。

1921 年に秀信の奉公先であった会社の宝鋳造所を買収する形で、今の⼯場がある⼤阪の地にて当社の歴史は始まります。創業当時は七輪の簾(す)と呼ばれる家庭⽤鋳物部品や、マンホールなどを作っていました。しかし、バラバラとしたものを作っていても⼆束三⽂にしかならないので、何かまとまったものを作りたいと考えていました。理容室で使われる理容椅⼦は鋳物部品を使うのですが、この部品注⽂が増えてきていたことから、いっそ⾃分たちで作ってみようとなったことで、当社の屋台⾻である理容椅⼦づくりが始まりました。

こうして鋳物部品の製造から、付加価値のある「ものづくり」をはじめることになりましたが、伸びしろを⾒つけては創意⼯夫して挑戦するのが当社のDNA でありこれまでの成⻑の原動⼒です。

レッドオーシャン市場にて、知名度を⾶躍的に上げてくれた「えべっさんの椅⼦」作戦。

1931 年より理容椅⼦の⾃社⽣産をスタートさせましたが、当時⼤阪だけでも理容椅⼦メーカーが17 社もあり、競争が激しく、新参メーカーは⾨前払いされることが多かったんです。そこで、⾃分たちの知名度を上げるために1932 年1 ⽉10 ⽇、今宮戎神社(⼤阪)の⼗⽇戎の参道に理容椅⼦を並べました。⼗⽇戎は商売繁盛の神でもあるえびす様を祀るお祭りですが、夜店が並ぶ中に突然理容椅⼦が置いてあったことで多くの⼈が驚き、翌⽇から「えべっさんの椅⼦」と⼀躍有名になりました。

当然こうしたお祭りには、商売繁盛を祈願する理容師さんも訪れますので、ターゲットのお客様に直接製品をお試し頂ける場をつくったことは当時の営業⼿法を考えるとかなり斬新です。現代で⾔うポップアップストアです。この時のブランディングのイメージは「商売繁盛のご利益がありそうなえべっさんの椅⼦!」と⾔った感じでしょうか。

そして東京へは1935 年頃に進出しましたが、当時の⼤阪の製品は「さかもん」と⾔われてあまりイメージもよくなく、どこへ⾏ってもなかなか話を聞いてもらえず苦労したそうです。1945 年の終戦を機に、戦後復興で他社に先駆けて製造の再スタートをしたこともあり、1950 年頃から販路をどんどん拡⼤していきました。そして、国際的な⾏き来が今ほど⾃由にできない時代とはいえ、⼤変魅⼒的な市場として海外に⽬をつけました。

アメリカに進出。椅⼦⽂化の強いアメリカ⼈のニーズが⽇本品質に磨きをかける。

世界は⼀つ。良いものは国や⼈種に関係なく世界中に必要とされている。この精神が創業時から現代まで貫かれていますが、1950 年頃の海外営業は今聞いても驚かされるぐらいの視点が豊かで、遊び⼼のある創意⼯夫がありました。

共にアメリカを⼀周した営業⾞

共にアメリカを⼀周した営業⾞

戦前も韓国や台湾へ商社を通じて椅⼦を輸出していたことから、海外でも売れるという感覚が創業者にあったようです。その中でも世界最⼤の消費国であるアメリカに⽬を付け、「どうもアメリカという所はいいマーケットみたいやから、⼀つやってみいひんか」、「なんか分からんけどやりましょか」ということになったのが海外進出のきっかけです。

まず1955 年にシアトルで開催された「国際貿易⾒本市」に理容椅⼦24 台を出展しました。品質は現地品に劣りはしたものの、全て現地で売りつくしたことで創業者は⾃信を深め、翌年1956 年にニューヨークの5 番街に現地法⼈「タカラカンパニー・ニューヨーク」を設⽴しました。⽇本の製造業としては4番⽬の進出ですので、当時の感覚としてもかなりの怖いもの知らずな挑戦です。

しかも当時⽶国の理容市場は、2 ⼤メーカーが押さえており、この市場に⾷い込むことは⾄難の業。営業に回るにしても⾞も運転できない外国⼈ですから、免許を取得することから始まりました。そして、前年の⾒本市で椅⼦を売って得たお⾦で、GM ⾞の緑⾊のバンを購⼊。とにかくアメリカ中を徹底的に回らないと考え、地図を⾒て、バンに理容椅⼦を積んでアメリカをぐるりと⼀周回りました。ついた先ではイエローページ(電話帳)で理容美容のディーラーを探しては、⽚っ端からドアを叩く。⾏って話しして、ちょっと興味がありそうなら、椅⼦を下ろして、ちょっと動かしてみせて。

ロサンゼルスでの商談⾵景

ロサンゼルスでの商談⾵景

しかしこの頃はまだ⽇本の技術は低く「メイドインジャパン」は粗悪品の代名詞。古くから椅⼦の⽂化が根強くあるアメリカの品質には到底及びません。実際、製品のトラブルも多かった頃です。製造技術の未熟さによる機器の故障だけでなく、⽇本の⽪⾰の染⾊技術もまだ発展途上で⾰の⾊落ちやなどクレームも多かったようです。社員は熱意だけを武器にサロンを毎⽇回り、クレームには⾔葉の通じない相⼿に必死に謝りながら修理をし、より良い品質の部材や⽪⾰材の調達に奔⾛したそうです。調達先であった⽇本のビニール業界などを始めとする様々な産業も急激に品質を上げてきた頃であり、産業同⼠が⽀えあって⽇々の⼯夫により新しい価値を⽣み出していました。

こうした市場からの学びが⽣まれる度に、改良を着実に重ねて⾏ったことで当社の技術⼒も⾶躍的に向上していきました。その中でも、次々と新製品を発表することで評判は徐々に上昇していきました。そして⽶国の2⼤メーカーの⼀つであったKOKEN 社を1969 年に買収するまでに⾄ったのです。

アメリカから始まった、デンタル市場への新挑戦

海岸でのデンタルチェアロケ撮影

海岸でのデンタルチェアロケ撮影

理容椅⼦から始まった当社の事業ですが、同じ油圧ポンプ機構がデンタルチェアにも使えることから新領域に踏み込んだのが1966 年頃。当時他社の油圧ポンプは斜めにしたら中から油漏れがするような脆弱な構造だったそうですが、それではまずいということで当社は密閉式のポンプを製造し、どちらに向いても油こぼれしないものを作りました。これが本当に質の良いものができましてアメリカの競合もコピーをしたぐらいの品質だったと聞いています。チェアの製品構造を⾒てみるとドイツ製かと思われるぐらいの整然とした美しい構造だったそうです。

デンタル領域においても⾒本市を⾒て回って競合品を参考にしては製品改良を繰り返すことで、⽶国業界内でのプレゼンスを確実に上げていきました。現在は全世界に展開している当社のデンタル事業ですが、実はアメリカで始まり⽇本に逆輸⼊されたものなんです。

そして当時の販促は、カタログの作り⽅もかなりアバンギャルド。アメリカ⼈のデザイナーが素晴らしいアイデアをデザインに反映してくれて、海岸にデンタルチェアを並べて撮影したりもしました。この斬新な撮影写真が使われたカタログは迫⼒のある仕上がりで、今でもやはり強烈なイメージが残っています。他にもマンハッタンの夜景を背景に撮影したデンタルチェアや、欧州のコロッセオ中⼼にデンタルチェアを置いての撮影などもあり、なかなか他にはないアプローチでして、⼀つの独⾃の世界観が出来上がっていましたね。

アメリカ⼈と⽇本⼈は使う⾔語が違っても通じ合うものは通じ合う。基本的な⼈間のニーズというものは住む国が違えど本質的には同じなんです。情熱や迫⼒のあるものというのはそれだけで強いメッセージ性を放つものです。これらのクリエイティブも強烈なインパクトを⽣んでくれました。

プロダクトデザインの重要性。デザインから⽣まれる感情的価値

デンタル業界にインパクトを与えた ブルース・ハナによるデザイン

デンタル業界にインパクトを与えた
ブルース・ハナによるデザイン

時代は少し進んで1970 年頃、2代⽬である吉川秀⼀はプロダクトデザインにも強い関⼼を持っていました。機能や品質だけでなく、デザインにのせられる感情的な価値も製品価値として⼤変重視していました。当時から、定期的にデザイナーのプレゼンテーションを受け、それを製品開発に⽣かしていましたが、多くの著名デザイナーとのコラボレーションも積極的に進めていきました。

ピエール・カルダンやミッシェル・ケネセンなどから始まり、1990 年頃にはフィリップ・スタルクといったデザインの世界では誰もが知っている重鎮の⽅々と製品づくりを重ねました。アメリカ⼈デザイナーのブルース・ハナによるこちらのデンタルチェアは、その斬新でアイコニックなデザインから、発表と共にデンタル業界に旋⾵を巻き起こし、その後のプロダクトデザインに⼤きな影響を与えた傑作となりました。あまりの美しさに他社の社⻑も購⼊したとか。

現代でこそデザインへの重要性は社会的に広く語られていますが、当時どれほど売上に影響するのかも測れないデザインに投資するということはかなりの強い信念の表れです。しかしこうしたデザイナーの⽅々との共同制作により得られる議論がものづくりの⽂化として定着し、現代の私たちの事業にも強いインスピレーションを与えてくれています。

これからの未来に向けて社⻑として思うこと

油圧シリンダーと七輪の簾(す) ⼀つ⼀つの部品が100 年の歴史を形作る

油圧シリンダーと七輪の簾(す)
⼀つ⼀つの部品が100 年の歴史を形作る

これまでの100 年で様々な挑戦を重ねてきましたが、成⻑の伸びしろを⾒つけては事業が拡⼤してきました。

七輪の部品から始まり、鋳物による油圧シリンダーを搭載した理容椅⼦への付加価値製品への転換。そして既存領域を⽣かし新領域のデンタルチェアの⽣産を開始し、その後理美容産業で更に拡⼤するきっかけとなったのが海外のプロ⽤化粧品ブランドWELLA(独)やClairol(⽶)などの輸⼊販売の開始。そしてその学びを⽣かして⾃社化粧品の開発をスタートし、⾃社ブランド「ルベル」を⽴ち上げるといった形で、より魅⼒的な仕事を追いかけて100 年が経ちました。創業時には思いもよらなかっただろう現在の姿は、様々な挑戦者たちの強い意思がもたらしてくれたもので、彼らの挑戦があるからこその失敗と学びを財産に現在の姿になっています。

⽂字通り様々な事業を切り開いてきた100 年でしたが、これからも挑戦者としての精神を⼤切にし、社会にとって強く求められる企業となっていきたいと思っています。当社は⾯⽩いチャレンジを喜ぶ⼈材が豊富です。⾊々な知識や経験、パーソナリティとストーリーを持った⼈が揃っています。それぞれの夢と知恵を掛け合わせて、新しい化学変化を多いに産んでいきたいと思っています。こうした化学変化こそ、⼈をワクワクさせてくれる伸びしろをつくってくれます。

挑戦は⾃信を育みます。どこにでも踏み込んでいけるような「ヤンチャごごろ」で、今よりも⼀歩前に進む。その⼀歩⾶び出すことで⽣まれる新しい世界そのものを⼀⼈⼀⼈が楽しんでいける、そんな姿を⽬指したいですね。そして私たちから⽣まれる奇想天外なアイデアで、市場を賑やかにしていきたいですね。

吉川秀隆(よしかわ・ひでたか) 1949 年、⼤阪市⽣まれ。⽇本⼤学経済学部卒業後、⾃動⾞販売会社で勤務した後、1974 年に祖⽗の吉川秀信が創業したタカラベルモント(⼤阪市中央区)に24 歳で経理担当として⼊社。デンタル・メディカル機器の営業及び製品企画、理美容機器の営業を経て、1980 年ベルモント化粧品常務、1985 年に東京⽀社⻑。1989 年に40 歳で社⻑に就任後、1999 年から会⻑を兼任している。⼦供時代はショールームが遊び場で、学⽣時代は同社の⼯場でメッキ加⼯やトラック配送のアルバイトをしていたことも。アルバイトで貯めた資⾦は趣味の⾞の改造へ。

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