100th ANNIVERSARY タカラベルモント株式会社

株式会社東京美容研究所 代表取締役 田中 雅子先生 育ててもらった美容界に感謝と恩返しを

若干14歳で飛び込んだ美容界での苦労

「私は美容業界に育てていただいたようなものですね。14歳の時に、姉の知り合いが開店した美容室に住み込みでお世話になることになって。何もわからないので、いつも先輩の技術者から怒られて、詰め込みの毎日でした」そう語るのは、創業90年以上の歴史を持ち、日本全国で70店舗のヘアサロンやブライダルサロンを展開する東京美容研究所の代表取締役で、今年で86歳を迎える田中先生だ。東京の城東区で育った田中先生は、14歳のときに空襲に遭い、逃げている途中で母親と離れ離れになって、戦災孤児となった。「空襲に遭った後、亀戸で5日間くらい放浪生活をしました。そのときの悲惨な状況は今でも鮮明に思い出します」その壮絶な経験のすぐ後に、美容室に住み込みで世話になることが決まった。それが、この業界に入ったきっかけだ。

急に美容業界に飛び込むこととなった田中先生は、苦労も多かった。しばらくして、初代の田中雅子先生のもとで技術者として働き出した田中先生はお客様から厳しい評価を受けることもあった。「当時、私はヒルトンホテルとか東急関係の美容室に回されていました。そうすると、社長さんや社長夫人もお客様で見えることがありました。しかし、『あんな口の悪い、べらんめえ調で品がない人をこの店に置かれたら困るわよ』と、初代の田中先生が社長夫人から言われてしまって。私は、その後すぐに先生に呼ばれて『それを直さなかったらすぐ辞めてください』と言われたんです」その悔しさを糧に一層努力を重ね、お客様からその実力を認められるようになる。「ある日、同じ夫人が『頑張って。あなた、よくやった』と言ってくれて、それを先生に話してくれたらしいんです。すると、先生からうちの嫁に来ないかと誘いを受けるようになったんです」そうした縁によって、田中家に嫁ぐことになった田中先生は、のちに初代の田中雅子先生や夫が亡くなったことを受けて、2代目の田中雅子として、東京美容研究所の代表を担うこととなった。

タカラとの旧縁と秀隆社長一家との交流

田中先生とタカラベルモントとの縁は、田中先生が田中家に嫁ぐ前にさかのぼる。当時、技術者だった田中先生は、日々の仕事のなかでタカラベルモントの存在を意識することはなかった。しかし、海外研修を機にその印象は大きなものとなる。「私が17か18歳くらいで東急ホテルの店で店長を勤めていたときに、新しくヒルトンがオープンすることになって。そこの店で店長を務めるために、海外に1ヶ月くらい研修に行くことになりました。ハワイから始まって各所を回るなかで、最後がニューヨークだったのですが、出かけた際にホテルでトランクの中身を全て盗まれてしまったんです。それで途方に暮れていたところ、すぐ翌日に秀信社長の娘の渡辺佳代子さんが見えてくださって、3日間お世話になりました。まだ田中家に嫁ぐ前だったのですが、後の主人がタカラの秀信社長に連絡をしたようでした。そのときは本当に有り難かったですね。まだ田中家に嫁いでもいない、いち従業員の私のためにそこまでしてくれるとは、タカラさんは何てすごい会社なんだと、とても感激しました」

また、現在のタカラの3代目秀隆社長や朋秀専務とも親交が深い。「家が近いこともあって、秀隆さんのところとは、奥様との交流をきっかけに、親しくさせてもらっています」ホノルルマラソンに参加する秀隆社長の応援もしている。「ハワイにある、うちのマンションの下がちょうどマラソンの出発点なんです。『大勢が走っているのでわからないから、手を挙げて』とお願いしたり。秀隆さんとの面白いエピソードは、本にできるほど他にもたくさんありますね」また、朋秀専務とも定期的に会食するなど、家族のように親しく交流している。

美容界への想いとこれからのこと

「縁で田中家に嫁がせてもらったのが最高の幸せですね」そう言って微笑む、田中先生は、美容界に感謝して、これからもできる限りの恩返しをしたいと考えている。「すべてが縁で、皆さんがいるお陰で私がこうさせていただいていると思っています」そして、田中先生にとって、タカラベルモントはつねに傍にいて深い縁で繋がっている存在だ。「大阪にTB-SQUAREができたときにも、私は本当にうれしかった。素晴らしいものができて、皆が力強く未来へ向かっていく様を見たような気がして感激しました。長い道のりでは、いいときもあれば悪いときもあると思いますが、それを乗り切る素晴らしいチームワークを持っていることを信じて、これからも頑張っていってほしいと願っています」

取材日:2017年12月6日

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