会社は昭和5年に父、古川やす三郎さんが立ち上げた。小学校時代、親戚筋が経営していた床屋関係の器具を扱う店に当時でいう「奉公」に出され、その経験を生かして会社を起こした。「会社を立ち上げてしばらくしたころタカラベルモントの方が来られ、1万円札か1000円札か忘れましたが、とにかくお札を入れた弁当箱を見せて『これで名古屋のみなさんにタカラの椅子を売ってもらえないか』と相談されたそうです」。律儀なやす三郎さんはかつて務めていた会社の会長に相談し、名古屋ではみんなで売っていこうと決めたという。
太平洋戦争中も、やす三郎さんは出征がなく、そのまま終戦。古川元会長は戦前に生まれ、そのとき小学3年生だった。終戦後の混乱が少し落ち着くと、人びとは次第にお洒落に目を向け始めた。ファッションの時代が幕を開けると、当然、整髪にも関心が向く。それまで「さっぱり」するだけだった整髪にも流行が取り入れられ、理容店では理容椅子の需要が高まった。タカラベルモントからは当時、50号、57号というヒット商品が出た。父の仕事を手伝い始めた古川元会長はその当時を懐かしみ、目を細めた。「50号はバラバラの状態で店に届きました。こちらで、ドリルで穴を開け、タップも切って、もう全部作りました。57号はよく売れましたね」。営業エリアとしている愛知、三重県を1959年、伊勢湾台風が襲った。紀伊半島から東海地方までを駆け抜け、死者・行方不明者が5000人を超えた。「喜ぶわけにはいきませんが、台風で理容椅子の油圧ポンプに水が入ってしまい、その取り替え需要でひっぱりだこでした」と振り返る。
タカラベルモントとのつきあいは以来、ずっと続いている。古川元会長がタカラベルモントの社員で特に親しくしてきたのは千代岡和人・現副社長だ。千代岡副社長とは、2代目の秀一社長のころから、趣味のアユ釣りを通じて親しくなった。古川元会長のアユ釣り歴は30年。今も長良川の上流へ年に数回は出かけるそうだ。「イワナなどの渓流釣りはしません。アユだけです。アユはきれいな川でないと釣れず、そんなところで朝から竿をさしていると、昼食も立って竿を見つめながら食べるほど楽しいものです。最近は歳も歳ですから、岸に立って10メートルくらいの竿を使ってやっているので、そう多くは釣れません。昔は川に入ってましたから、多いときには30匹くらい釣れたこともあります。しかし、今は10匹も釣れればいいところです」。千代岡副社長からは、よく高知県中村市の四万十川へ釣りに行こうと誘われていた。しかしアユ釣りの期間は短く、なかなか行けなかったという。
千代岡副社長とはその後も連絡を取り合う仲。「3、4年前だったでしょうか、私が『血糖値が高い』というと『これを2日間で2リットル飲んでください』と健康飲料を紹介してくれました。それ以来飲んでますが、確かに血糖値は下がりましたね。千代岡さん自身も毎朝会社に出勤すると、それを飲んでいるそうですね」と笑う。さらに「母が亡くなったときも、千代岡さんにはお世話になった」という。父は1989年に他界し、タカラベルモントの秀隆現社長が葬儀委員長となって大規模な葬式を営んだ。一方、母は痴呆症になることもなく104歳まで生き、数年前に亡くなった。葬儀は家族だけで済まそうと連絡を取っていなかったが、「どこで聞きつけたのか、千代岡さんがものすごく立派な花を送ってきてくれました」と感謝する。
70年以上にわたるタカラベルモントと古川商會の取引。今は第一線を退いた古川元会長だが、インタビュー中にも、タカラベルモントの社員の名が次々にあがり、「どうしてる? 今度、こちらに見えられたときには一度ゴルフをしたいなあ」と気にかける。取引の裏にある信頼の強さを改めて感じさせられた。
取材日:2017年1月16日