「芸美会は、タカラさんの後ろを追いかけるようなかたちで続いてきたんです。ずっといっしょに日本の理容を動いてきたという思いですね。芸美会が行っている『神戸「べっぴんさん」学会』という理容学会があるのですが、それもずっとタカラさんに協賛いただいていて、平成29年には64回を迎えることができました」そう語るのは、理容師の育成・レベルアップをはかるために結成された理容研究団体、芸美会の西浦会長だ。芸美会のルーツは、西浦会長の父である、初代の西浦騎鶴氏が大正12年に創刊した雑誌『美容世界』にまでさかのぼる。「私の父は、元々は俳句の家元で宗匠に付いて執事を務めていたようなのですが、俳句をやっていて文章を書けるという理由で、神戸で理容をやっていた坪内駒平氏らに誘われて、皆で『美容世界』を創刊しました。父が雑誌を売っていた時分に、タカラの初代である秀信社長も椅子を売っていて、よくいっしょに営業に回っていたそうです。その雑誌に付随するかたちで講師会があったのですが、その会をベースにして、理容の勉強会として昭和2年に発足したのが芸美会なんです」
90年以上続く芸美会は、天皇の御調髪師だった大場秀吉氏の妹の婿で、関東大震災の影響で神戸に避難して理美容業を営んでいた山本顕治氏が軸となり発足して、初代会長を務めた。のちに、山本氏は昭和7年に天皇ご調髪御用掛として宮内庁に出仕することとなったため、西浦会長の父が会長に就任。現在では、西浦会長のもとで、西日本を中心に全国29支部、総会員数約2000名まで発展を遂げている。
先代の西浦会長の父とともに、西浦会長は長きにわたってタカラベルモントと親交を深めてきた。「タカラの歴代社長の印象もさまざまで、初代の秀信社長は迫力とオーラがありましたね。2代目の秀一社長は初代とはまた違って、インテリで学者肌という印象でした。現在の3代目、秀隆社長は展示会などでもお話させていただく機会がありますが、にこにこされていて親しみやすい印象ですね。中でも、初代の秀信社長とは親交が深く、父といっしょにタカラの旧オフィスに出向いてはいろんな話をしたのを覚えています。松本の全国大会ではホテルの部屋まで行って話をしたこともありましたね」また、タカラベルモントとの思い出の中では、大阪万博の印象が強く残っている。「タカラさんの万博への出展はすごい功績で、日本の理容に大きなインパクトを与えたものだと思っています。ウェルデザインやムーブメントと言って、ヨーロッパのスタイルを取り入れた当時は見たことのなかった跳ねた髪型などを目の当たりにして、それをきっかけに感覚が変わったのを覚えています。初代の秀信社長の夢が詰まっていましたよね」
芸美会では、発足当初から「理容は芸術であり、美術である」との理念を揚げ、受け継いだ技術の継承と世界に通じる技術の研究を続けてきた。「理容という仕事は、人間をつくっていく仕事ではないかと考えます。技術を通じて、お客様を、人間としてきちんとした品のある人間にしていくということです。そのためには、まず理容師が自分自身を磨き続ける必要があります」初代である父から芸美会の会長の職を継いだ西浦会長は、芸美会の目指す理容師像とともに、後継者への考えも語った。「私は父と血が繋がっていることから、父がなくなった後に会長の職を継ぎました。私は、理容免許もなくて技術もできないのですが、かえって業界を外から見ていけるのはおもしろいと感じています。私の子どもは娘2人なので、後継者は血縁ではなくなると思いますが、きっとその時点になった際に、適任の人間が必ずいるはずだと思っています」西浦会長は、これからも永く未来へと続いていく芸美会の夢を語る。「阪神淡路大震災では大きな被害を受けた芸美会でしたが、その際もタカラさんに真っ先に頼んで再建に協力していただきました。これまでも、そしてこれからも芸美会は、タカラさんとともに歩んで行きます。自分自身の鍛錬を怠らずに理容業界に貢献する芸美会の会員が一人でも多く増えていくことを願っています」
取材日:2017年7月31日