100th ANNIVERSARY タカラベルモント株式会社

株式会社キョーリ 小西康夫会長 「売るための武器がほしい」と言わせてもらったことも

60年のお付き合いです

「タカラさんとは60年のお付き合いをさせてもらってます」。兵庫県加古川市の代理店「キョーリ」の小西康夫会長は半世紀を超えるタカラベルモントとの取引を振り返る。

「25歳で独立したのですが、その3年くらい前の事でした」と、その出会いを振り返る。近所のサロンに行ったとき、店主が「ここで使っている器具を売ったらどうや」と勧めてくれたのが始まりだった。「『ほな私、やりますわ』と簡単に引き受けてしまったんですわ。自分は金物屋に勤めてたのにね」と小西会長は苦笑いする。幸い、金物屋の店主が親戚だったこともあり、その意向を大切にしてくれた。

営業には自転車で出かけたという。加古川から約20㌔も離れた明石市内へも自転車で行き、次々とサロンを回った。タカラベルモントがまだ、宝鋳工所だった時代。理容用の椅子はデザインのスマートさが人気でベストセラーとなった1954年発売の「54号」。「そのころの理容店の椅子いうたら、船の操舵室にあるような丸い木の椅子でした。タカラさんの椅子はよう売れましたな」

タカラベルモントは57年、油圧で椅子の高さを上下できるハイドリック式の「57号」を発売。「サロンさん同士も競争意識があるわけです。『隣の店に入った椅子(57号)、ええやんか』となると、話が早い。まあ次々と売っていくことができました」

面白く、仕事しか頭になかった

金物屋で理容の椅子を売り始めて3年、小西さんは25歳で独立した。独立の直前、それまでに儲けたお金で日産自動車のダットサンを購入した。当時はまだ車も少なく、サロンに車で乗りつけると「えーっ。車に乗ってきたんか。凄いやん」と評判になったという。国道2号線はまだ未舗装で、神戸まで販路を広げていた小西さんは車で片道1時間半をかけ、加古川から神戸まで通った。タカラベルモントではさらに、ハイドリック式の新型を発売した。小西さんは自動車で営業をして、売れた先への配達にトラックの助手席に乗り込み、いっしょに回った。「10台、20台と積み込んで、すっごい売れたんですわ。面白くて、仕事しか頭にありませんでした。その時分、みんなそうやったん違いますか。それが結果的に日本経済を支えていたのでしょう」

「タカラの神戸営業所の方も一生懸命やってくれました」と感謝する。忘れられないのは2代、秀一社長との関西の代理店を集めた会議の一コマ。「タカラさんは当時、前洗面の機種で出遅れまして、どうすればいいかと話し合いました。みんな黙って何も言いませんでしたが、私は黙ってんのが嫌いなんです。それで秀一社長に『他社が出してるのに、指くわえて見てまんのかいな。タカラを売りたいから、武器がほしい』と言わせてもらいました。秀一社長はそれに応えてくれました。だんだん良いものを作ってきましたね。営業マンもイエスマンではあきません。意見を吸い上げる会社がいいですね」

若いときにはゴルフもかじったという。まだ、ブームが来る前だった。しかし、小西会長はゴルフを途中で辞めたという。「仕事が頭から離れませんのや。打っとっても面白うない。途中で、もうやめますわと帰ってました」。唯一の趣味は釣りだった。「加古川市の沖合いでも結構釣れましたし、淡路やったら40センチくらいのフグが一日に40匹くらい釣れました。釣りのときだけは仕事を忘れられました」という。

今こそ、理容業界に提案を

80歳を超え、2代目に社長職を譲った今も、理容業界に寄せる思いは熱い。「散髪屋さんは心配ですね。後継者がいませんし、主人が病気になったら店を辞める人も多い。しかし言い換えればチャンス。タカラさんにも協力してもろうて、一発ええ店を構え、最新の設備でやっていけば流行りますよ。資金面や店づくりをどうするかという課題はありますが、それをやらないと理容業界は衰退していきます。タカラさんには理美容が繁栄していくような提案をしてほしい」と期待する。

取材日:2016年12月9日

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