100th ANNIVERSARY タカラベルモント株式会社

株式会社ナカニシ 中西崇介名誉会長
代表取締役 中西英一社長
戦後50坪から始まりグローバル企業へ

終戦間近に移住した鹿沼の地

「私の父はもともと、昭和5年から東京の千代田区豊島町で工場をやっていました。そして、戦争末期の昭和20年4月に、鹿沼でゴムを作る工場を営んでいた地元の名士に世話になり、父といっしょに鹿沼に移りました」そう語るのは、株式会社ナカニシの中西会長だ。今年で80歳を迎えた中西会長は、その当時中学2年生だった。「父は自分の工場の機械を買ってもらい、工場長のようなかたちで迎えられました。終戦直後は作るものがなく、残っていた材料で煙管などを製造していました。程なくして、昔、いっしょに仕事をしていた方が戦争から戻って、父を頼ってきたこともあり、当時給料も安かった父はまた独立して自分でやろうと決めたようです。父は27歳くらいまでの十数年間、日本で初めてハンドピースを作った会社に勤めて、技術を身につけた経験がありました。それを活かして、その時に初めて歯科向けの仕事を始めました」当時はハンドメイドの部分も多かったというハンドピース。中西会長は、やすりを巧みに使って仕上げる父の姿を今でも鮮明に記憶している。当時は、10名ほどの社員で敷地は50坪くらいだった。地元にある名門の商業高校に通っていた中西会長は、高校生ながらそろばんを弾いて現金出納帳への記帳や給与計算などを担っていた。「その頃は機械を置くときに、50センチから1メートルの石を岩から切り出してきて、ボルトを据え付けて基礎にするために、鉄兜に硫黄を溶かして流し込んでボルトを固定していました。そんな光景も印象に残っていますね。作った製品の納品に父が月一回、東京に出向いてお金をもらってくる。材料も工具もその時に東京で仕入れて帰ってくるという流れでした」

積極的な宣伝活動と海外進出による発展

昭和30年代には不況で歯科商店が次々に倒産するなか、ナカニシも取引先から納品を断られることがあり、苦境に立たされた。しかし、それが転機となり、新たな展開が生まれる。「その時期に取引先が紹介してくれて、歯科の工業組合に入ることができました。そして、自ら修理でも何でもやってくれないかと独立を迫られて、販売代理店4社を作り、父のイニシャルを取って『KNコントラ』という自社ブランドを立ち上げたのです」その際、ブランドの認知向上を図るために、販売代理店の方の手引きもあり、最大手の広告代理店である電通を使って、カタログとダイレクトメールを作成した。「『折角作るなら良いものを』という父と販売代理店の方のアイデアでした。父は全国の歯科医師会にお願いして名簿を送ってもらい、『1分間で分解できるコントラ』というコピーで、一万人くらいにハガキを送りました」中西会長をはじめ社員全員が協力して宛名書きをして、2年くらいの間に2〜3回繰り返し実施した。その成果もあり、KNコントラは全国で認知度を高めて注文はどんどん増えていった。

また、国内だけではなく、海外へ進出することでさらに事業は拡大した。「アメリカの最大手のメーカーがうちの製品に目をつけてくれて、取引が始まりました。1回の注文がこれまでは数十本単位だったものが、一気に5千本単位にまで拡大したんです」その当時は、早朝から深夜までフル稼働で生産する忙しい日々が続いた。注文が入るたびに、機械を追加して、社員数も増加していった。

お客様の声を大切に常にがむしゃらに

事業が拡大して、機器も進化していくなかで、タカラベルモントとの関係も深まっていった。「タック吉川さん(吉川隆俊前会長)をはじめタカラさんには本当に世話になりました。特に、タービンの時にはトラブルも多くご迷惑をお掛けしたのですが、タックさんが『材料が悪いのでは』と言って、わざわざ三菱重工に出向いてくれたことも強く印象に残っています」中西会長は、タック吉川氏には数回ゴルフに連れていってもらったり、大阪ではホテルまで来てもらったりと、可愛がってもらったことを懐かしんだ。

中西会長は最後に、現在の社長をはじめ、社員への期待を語った。「私は、お客様のクレームは宝だといつも言っています。言われたら一晩で対応する。そうして、とにかくがむしゃらにやることが大事です。何事にも向かっていく人間を作っていってほしいですね」中西会長の熱い想いを受けて、息子で現社長の中西英一氏も会社の未来と夢を語る。「より一層お客様に感動してもらえる製品をどんどん出して、グローバルでナンバー1になりたい。社員といっしょに喜びを分かち合いながら進んでいきたいと考えています」

※中西崇介名誉会長は2022年10月21日にご逝去なされました。ご冥福をお祈り申し上げます。

取材日:2017年9月26日

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