100th ANNIVERSARY タカラベルモント株式会社

株式会社九美堂 吉田勇吉会長 創業者のバイタリティーに感服

一斗缶に現金を詰め込んで工場へ

「我々には椅子いうたら、タカラ。心根のつながりはずっと変わりありません」。福岡市を本拠に九州、中国地方に13の本支店を展開する代理店「九美堂」の吉田勇吉会長はタカラベルモントとの長く、深いつながりを感慨深げに語る。

戦後間もない頃、福岡市竹若町にあった理髪器具店「岡島屋」から独立し、古小路(現在の同市店屋町)に店を構えた。昭和24年、九州の「九」、美容の「美」、そして中国語で「店」の意味もあるという「堂」の文字を並べて社名とした。2階で妻が美容室を経営しながらの船出だった。そのころは交通網は戦争でズタズタとなっていた。「朝早くから番頭に駅へ行かせ、列に並んで切符を買わせた。切符が手には入ったら、私は一斗缶の半分の缶に現金を詰め込んで、大阪市西成区の津守にあった工場へ向かいました。大阪までは汽車で半日以上かかりました。当時は銀行で送金するにも日にちがかかりましたから、お金を持参し足を運んでの仕入れでした」

荒い輸送で壊れていることも

タカラベルモントの椅子は店に到着すると、すぐに売れたという。しかし問題は荒っぽい輸送だった。「20台送ってもらっても、まともに到着したのは1、2台。木枠で梱包されてはいましたが、届いたときにはほとんどが一部割れていました。それでもこちらとしては売らないと商売になりません。近くの溶接工場に持ち込んで、くっつけてもらい、接合部分をサンドペーパーで磨いて理髪店に持って行きました。しかし、メッキしていないので、しばらくするとサビてくるのには困りました。まあ、そんな無茶も許された時代でしたな」

商魂逞しく懐深い創業者

取引では創業社長、吉川秀信との思い出が多い。「妻の母親が日本髪の講師をしていまして、その母親から大社長(吉川秀信)は、それは商魂たくましい人やったと聞きました。戦前は九州に来ると岡島屋や九州理器に寄り、そのまま船で満州に渡ったそうです。向こうでも自社の商品を売り、同時に燃料のコークスを仕入れて再びこちらで売りさばいた。まさに創業者らしいバイタリティーでした」。

吉田会長は、秀信の商売人としての嗅覚だけでなく、経営者としての人と接するときの懐の深さにも共感する。「相手を思う心がありました。大社長は店に来られると、いつも私と岩本さん(理容グループ「マルゼン」代表)を昼ごはんに連れて行ってくれました。私はまだ20代。引き立ててやろうと思ってくれたのでしょう。珍しいもんをあちこちでごちそうになりました。理髪店主らの組合員から『競技会をするので寄付を』と言われると、『よっしゃ』と二つ返事。そんな人柄やから、みんな大社長を慕って、店を出られるときには10人ほどでいつも見送っていました」

代理店はタカラの代表という意識を

タカラベルモントとは2代目、3代目を通してずっとつきあっている。「2代目は守りが強い。お父さんの言われることを絶対守られる。初代の直感とは違って、口達者な代理店の人間との交渉では相手の言うことをパンと受け止めて『それは帰って考えましょう』と間を置く。交渉が上手く、合理的でした。3代目は活発ですね。相手を大切にしつつ、することはするという決断力もある」。

今後もタカラベルモントとのつきあいは続く。「もっと代理店を監督してほしいですな。代理店はタカラの代表だという意識を代理店の従業員に育てなあきません。そのためには若いもん同士でもっとつきあいをさせることです。メールではあきません。若いもん同士で勉強し、次の代をちゃんとつくらせましょう。今は我々とお客さんのつながりが以前より薄くなっているけど、やはりセールスは大切です。会って心をつかまないとあきません。初代から3代目まで、九美堂はみんなにかわいがっていただき感謝してます。お互いにがんばりましょう」。

※吉田勇吉氏は2022年3月31日に逝去されました。
ご冥福をお祈り申し上げます。

取材日:2016年11月16日

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