100th ANNIVERSARY タカラベルモント株式会社

有限会社サンビューティナイル 代表取締役 屋比久進社長 「道具がほしい」。皆の要望聞きディーラーに

ナイルには沖縄方言で「できる」の意味も

会社名の「ナイル」という名は、理容師だった屋比久社長の父が元の理容店に付けた名だった。戦前、大阪で理容師の修行をした父は「暖簾分け」で店を開いたが、そのとき勤めていた店の主人から、その名をもらったという。「父自身の思いの中には、エジプト文明発祥の地としてのナイル川もあった。また沖縄の方言では『あいつはないるだよ』というと『あいつはできるヤツだ』という意味になる。そんないろいろな意味のナイルを含んだ納得の名前だったのでしょう」と屋比久社長。
しかし理容師がディーラーになるまでには、戦争と戦後の米軍占領下を背景にした物語があった。「父は戦争中、理容をしていたのですが、あるとき、店にやって来た日本軍の上層部の人から『北の方に逃げなさい。南は戦場になるよ』と教えられたそうです。それで皆で北に逃げて命は助かった。戦後、那覇に戻って理容店を開くのですが、なにせ、櫛やハサミ、バリカンなどの道具がない。父は理容店の組合を作り、初代理事長も務めていましたから、みんなから道具がなんとかならないかと頼まれた。それで、手を回して本州との闇取引、要するに当時でいえば密輸入をしてみんなに渡していた。結局そのことがきっかけで、やっぱり材料屋がないとだめだとなり、それじゃ俺がするか、となったと聞いています」

美容の展開は営業マンの一言がきっかけ

社業の中心は今は美容に移っている。「東京の大学で学んでいた時お世話になったタカラの方がおられまして、その人から『お前のところ、バーバーだけだけど、美容もやらないとだめだよ』と言われたことがずっと頭に残っていました」と屋比久社長は振り返る。大学卒業後、沖縄に戻ったころ、タカラベルモントはウェラと一緒に化粧品を展開していた。「ウェラをやらないかという話をもらったとき、私の中には学生時代の忠告がありました。父に相談したら『やれ』という。それで美容に進んでいったわけでした」
大学4年のとき、屋比久社長は父と共に大阪に行き、当時の秀信会長と会っている。秀信会長は屋比久社長の父を「くん」づけで呼んで親しくしていたそうだ。「私は優しいというよりも、威厳を感じました。非常に大きい人だなあという印象でした」とその時の様子を話す。

「タカラさんには本当にお世話になった」

会社は父の後、叔父が社長を継いだ。しかし、どうも経営はうまくいっていなかった。立て直そうとしたが、次から次へと負債が明らかになっていく。ほとんどは本業ではない別の所で保証債務や資金の流出があった。「あまりにぼこぼこと出てくるものですから、叔父に問いただすのですが、結局、答えをはぐらかされる。それで飛び出して新たに立ち上げました。それからは必死でしたね。タカラさんにはその時、本当にお世話になりました。あり得ない話ですが、タカラさんはじめメーカーの皆さんに商品の締めまで60日間猶予してもらったこともあります。その後28年間タカラさんと接してきたのにはそういう恩があるからかもしれません」
沖縄の現状は必ずしも楽観的ではない。タカラベルモントのシェアは高くても、本土で修行した人や、本土から移ってきた理美容の店主は本土で契約してしまう。
一方、屋比久社長はTB-SQUAREには大きな期待を寄せる。「まだ、伺ってませんが、ぜひ行きたい。タカラさんが業界をリードするのはすばらしいこと。世界最高の椅子やサロンインテリアを見学したいと思っています。」

取材日:2016年11月21日

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