100th ANNIVERSARY タカラベルモント株式会社

株式会社 タック 田中克己 会長 化粧品製造から理容機器のディーラーに

父が自転車で得意先を訪問

「私が生まれた昭和28年が創業年ということになっています」
田中克己社長はやや照れながら、自社の創業のエピソードを語り始めた。父、正雄さんは元々、京都の化学製品の工場に務めていた。会社は戦後間もないころ、化粧品部門の製品としてシャンプーとポマードをつくっていた。正雄さんはその責任者だったが、着るモノも不自由だった時代に化粧品はそう売れるはずもなかった。正雄さんは苦慮したあげく、それらの商品をもっとも多く使うところとして理容店に目を付けた。1軒ずつ訪ね歩き、セールスに明け暮れる。すると、初めは全然買ってくれなかった店も、やがてぽつぽつと買ってくれるようになった。まだ、当時は会社員とはいえ、兼業したからといって誰かから文句を言われるわけでもなかった。ともかく食べるため、個人があれもこれも手がけていた。やっと、化粧品が売れるようになってきたのを見て、会社からは正雄さんに「販売店をやったらどうだ」と独立を勧めたという。そういうこともあって、会社の始まりはいつからと決めがたい。現在の田中社長によると「だらだらと昭和28年ごろに始まった」のだそうだ。

理容椅子を買いに現金持って大阪へ

独立してしばらくすると、会社にも信用が付き、理容椅子も売ることができるようになった。とはいえ、「初めは問屋さんでも現金でしか売ってもらえなかった」と、田中さんは父から伝え聞いた。京都から大阪に台数分の現金を持って買い付けに行き、今度は椅子とともに理容店を訪れ、現金に換える。再び、その現金を持って大阪へ。そんな繰り返しを半年、1年と続け、販売実績を積んでやっと「掛け」で問屋から椅子を卸してもらえるようになったそうだ。「まさに自転車操業ですが、実際、自転車で回って注文を取ってましたね」と田中さんは振り返る。父とは、朝、自転車で出かけたっきり晩に帰ってくるまで会わなかったそうだ。「しかし、ええ時代やったんちゃいますかな」と、当時を懐かしむ。
「タカラベルモントからカラーテレビをもらった記憶があります」と田中さん。カラーテレビが国内に普及し始めた昭和40年代、タカラベルモントは理容椅子をたくさん売るとカラーテレビをプレゼントするという販促キャンペーンを実施した。「販売台数を集計すると、あと1台足りません。そこで、1台を在庫覚悟で発注し、なんとかカラーテレビを手に入れました。小学校にあったテレビはまだ白黒。近所にカラーテレビを買った家があると聞いて訪ねていき、正座をして見せてもらったようなころでした。我が家にカラーテレビが来たのはそのときが初めて。うれしかったですね」。

「頑張りたまえ」初代秀信の貫禄

田中社長は、タカラベルモントの創業社長、秀信社長との直接の面識はないが、得意先の理容店主がホテルに店を出すというので、秀信社長が見学に来られたときの話を聞いたことがある。秀信社長は一通り店内を見て回り、店主を見つけると「おっ、お前がやっとるのか。頑張りたまえ」と激励。店主は田中さんに、激励された話を自慢話として話したという。「後で、なんで経営者がなぜそんなことをいわれんとあかんのや、とも言ってましたが、思わず自慢話で語らせてしまうところが初代の貫禄なのかもしれません」という。
今もまぶたに残る初代の理容業界を引っ張っていこうとする迫力。それを知る田中さんはタカラベルモントの創業100年に向けて「理容にもっと力を注いでほしい」と注文する。「タカラさんは、この業界の一番のメーカー。私たちのようなひ弱なディーラーを引っ張っていってほしい。特にお願いしたのは理容です。代理店会議で理容の代理店さんの顔をあまり見かけなくなりました。私も今は理容も美容もしていますが、元は理容で食べさせてもらった身。創業の元である理容をもっと充実させたいと思っています」

取材日:2016年12月8日

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