1951年、戦後で日本が急速に変化していくなか、若かりし日の尾上社長は故郷の赤穂から京都へと出た。ほどなくして、まだ勤めたことのなかった尾上社長に、当時、シオノギ製薬で働いていた姉婿から声がかかる。「シオノギがパーマ液をはじめることになって、売ってみないかと勧められたんです。他に就職を探してもいいけど、『あんたは続かないだろう』と言われましてね」そして、五、六年の間、その仕事を続けた。その後、シオノギがパーマ液の販売から撤退することになり、尾上社長に転機が訪れる。「急に仕事がなくなってしまって途方に暮れていたところに、兄が美容室に興味を持ち出し、大阪の豊中で店を始めたんです。」そこで、尾上社長はその美容室の材料を揃えるよう言われる。「美容室の先生が紙に注文を書いたら、それを受け取って商品を揃えて持っていく。気がついたら材料屋になっていましたね」商売をスタートした当初は、戦後の混沌とした世の中で代理店などもなく、理美容関連の商品の仕入れは、天王寺村の問屋に行って、山積みになっているところから調達するような時分だった。
そこから急速に社会の仕組みが整備されていくなかで、世の中のビジネスも目覚ましく振興する。尾上社長が当時懇意にしていた美容室と同じ建物に、タカラが入った時期があり、そこからがタカラとの付き合いの始まりだった。「当時からタカラさんは何でも売らせてくれてね。散髪屋の椅子でも何でも」高度成長期の真っ只中、商いが勢いづくなかで、尾上社長とタカラの仲も深まっていった。
タカラの初代、秀信社長には目をかけてもらった。「『東京の麻布などに行けば、世界に負けないようにできているから来い。良いものを見せないとあんたの取引先も良くならん』と言われて。15年間くらいずっと、定期的に東京通いをしたんですよ」尾上社長は、幾度も自身の取引先のお客様を引き連れて、赤坂のタカラのビルにも寄らせてもらい、東京見学をした。「おそらく秀信社長は、我々に刻々と振興する日本の現状を伝えたいという熱い想いがあったんでしょうね」
二代目の秀一社長には知り合いの背中を力強く押してもらった恩がある。尾上社長の知り合いで、新店舗を出したいが保証金が足りず、事業拡大に積極的になれない美容室の先生がいた。尾上社長はそのことを親交の深いタカラ社員の一人に相談した。「そうしたらその話を耳にした秀一社長が保証金を貸してくれたんです。誰を信用してくれたのか、15百万円という大金、普通は貸してくれないですよ」そのおかげもあって、これを機に知り合いの方はどんどん積極的になり、事業を拡大し15件も店を持つようになった。
尾上社長は今年で御年87歳。活気に満ちながら穏やかな笑顔で、歴代社長やタカラの多くの社員と親睦を深めてきた記憶を語った。尾上社長が感じる歴代社長の気質はさまざまで、初代吉川秀信社長には独特の存在感と創業者としてのバイタリティを感じた。二代目秀一社長はリベラルであってインテリ、そして物静か。三代目の秀隆社長は歴代のなかでも、特に商売上手でしっかりしているという印象があるという。「タカラには個性的で面白い人がたくさんいる。タカラの企業力は、そういった多種多様で魅力的な人材が集まっているところにあるのだと思う。三代目の秀隆社長が、社長に就任して挨拶にきた際に『私が社長を3年やったら、その後7代は続きます』と自信を持って断言された。あのときは感嘆したよ」もうすぐ100年を迎えるタカラとともに、材料屋として長年歩んできた尾上社長。「秀隆社長が言ったようにタカラにはずっと続いていってほしい。永遠に永遠に栄えあれ、そう願っています」
取材日:2017年2月15日