足置きに装飾的なイタリック体のアルファベットで記された「TAKARA」の文字。倉庫にはかつてのホーローの椅子が今も残されていた。宇賀会長がタカラベルモントの初代の秀信会長と出会い、タカラベルモントの商品を扱い始めた時代のものだ。手動で椅子を昇降させるための金属製のハンドルは今も黒光りを放ち、使い込んだ座面にも時代を感じさせる。そこには、戦前、戦後を通じて、四国の理美容業界を引っ張ってきた会社の歴史と自負が垣間見えた。
創業は昭和11年。宇賀会長が生まれる5年前だった。社内に掲げられた社訓を書いた額は社の一貫した方針だ。
朝礼の時は、この言葉を全員で唱和する。宇賀家は元、土佐の出身だという。「香川の宇賀姓にはどうも2派あって、一つは金物屋、もう一つが魚屋です。父の本家は今も続く金物屋でした。創業当時、本家ではハサミやバリカンを扱ってましたが、理髪店からカミソリやハサミがないかという問い合わせが多かったので、その部門だけを独立させたのが始まりです」
タカラベルモントとのつきあいは秀信初代社長との出会いから始まった。「私はやはりタカラに育ててもらったと思っています」と宇賀会長は振り返る。「25歳くらいの時だったと思いますが、神戸市の六甲に全国から若手経営者を集めて勉強会を開いてもらいました。新製品を四国に売りに来られていたツヅキさんが仕切っていたと思いますが、全国から集めて泊まり込みで1泊か2泊か。相当なお金をつぎ込まれたと思います」
タカラベルモント主催の海外研修にも参加した。「ニューヨーク店に寄せていただきました。30歳くらいの時だったと思います。ニューヨークのタカラの工場や、セントルイスにあった元コーケンの工場にも行きました」
とにかく、タカラベルモントの社員とのつきあいは濃厚で頻繁だった。「うちの父はあまり出かけたがらないので、代理店会議には20代のころから私が出席していました」という。「北海道でゴルフをやるというので出かけていき、現在の千代岡副社長とラウンドをともにし、その後お酒を飲んで以来、ずっとお付き合いしています。まだ40歳くらいのときでしたね。2代目の秀一社長ともよくゴルフをご一緒しました。バッグを提げて大阪や京都に出向き、3、4人で回ったものです。それが功を奏したのか、一時はハンディ10まで上達しました」
そんな付き合いもあって、タカラベルモントが美容部を作ったときには全力で協力した。「協力してくれと言われましてね、そのころ私はまだ美容室へはあまり足を運んでいませんでしたから、サブの代理店を3、4店つくって四国じゅうへ売りに行きました。しかし、今にして思えば、理容、美容の両方をしていて良かったです」
今は理美容が厳しい時代。「私が育ててもらったように、今の若いヤツにも楽しみをもたせてやってほしい。そしてディーラー全体が儲かるようにタカラさんにはリードしてほしいですね」
取材日:2016年12月21日