100th ANNIVERSARY タカラベルモント株式会社

株式会社ワシズ 故 鷲津光男会長 世界へどんどん情報発信してほしい

平和になった。これからは美容

昭和25年、「平和になって美容はいいんじゃないか」という義兄の勧めもあって熊本で創業した。「当時はまだ『電髪』の時代でした」と鷲津会長はいう。「パーマネント・ウエーブ」のことだが、戦前、敵性言語ということで使用が禁止され、当時もまだ「電髪」という言葉が使われていた。すでにアメリカでは、コールド・ウエーブ・パーマネントが普及していたが、日本に本格的に「コールド・パーマ」が上陸するのは鷲津会長によると、28年年頃という。コールド・パーマがやっと普及し始めたとき、美容師の免許を取得していた鷲津会長は「私も片手間に髪を巻くのですが、電髪のときは24、5本巻けばいいのに、コールド・パーマは80本も巻かなきゃならん。美容師さんに教えてもらって勉強しました」と記憶する。

創業時は日本経済も戦後勃興期。「あの時分、銀行は手形を待ってくれました。今では考えられないことですが、手形が落ちる午前11時を前に『すいません、待ってくれ』と頼むと、翌日の11時まで伸ばしてくれました。1、2度そんなことがありました。社員の給料を払うために、何度か高利貸にお金を借りたこともあります。利息は月に1割。ところが向こうがこちらを信用してくれて、後には月に5%になりました。ビルを建てるときは、信用金庫から1億7000万円借りました。昭和32、3年ころだったと思いますが、あのときはきつかった。しかし、これまで人に迷惑をかけんとやってこれて、良かったなあと思います」。鷲津会長はおおらかでダイナミックだった当時の経済の在りようを思い起こす。

九州の2営業拠点が一つに

タカラベルモントとのつきあいは九州タカラベルモントの設立を通じて深くなる。「九州には福岡と熊本に二つの国税局があるでしょう。福岡が福岡、佐賀、長崎の3県、熊本が熊本、鹿児島、宮崎、大分の4県を管轄しているのですが、タカラベルモントも同じように九州に二つの営業拠点がありました。一つは西部タカラで、福岡や大分を担当していました。もう一つは、タカラベルモントの九州営業所。ここでは、熊本、鹿児島、宮崎などで営業していました。二つを統合したのは、アメリカから九州に転勤してきた宮田さんでした。そして生まれたのが九州タカラベルモント。もちろん、吉川社長が務めました。私もその株をいただきました」

かつて、会社には創業者の秀信会長が頻繁に顔を出した。「電通の『鬼十訓』ではないですが、タカラにも『五訓』というのがあって、しょっちゅう聞かされました。でも、話は面白かった。面白いので家族まで呼んで、ブラジルのこととかご自身の人生のドラマとか。当時は我が社はビルではなく、あばら家のようなものでしたが、その2階に上がってお茶を飲みながら1時間ほど話してくれました。家族の心配もしていただいた」と懐かしむ。

秀一前社長の時代には、タカラベルモントがウェラ社と提携する直前のエピソードが記憶に生々しい。「アメリカの『ミスクレイロール』の毛染め剤を日本に導入したのがテルミー美容室。テルミー美容室が東京・代官山に開設した美容学校の校長夫妻と私が親しかったので、秀一前社長に専門剤の話をしに大阪本社まで行ったころもあります。秀一前社長は率直な人でしたね」。

「世界へ発信。素晴らしい」

もちろん、秀隆現社長とのつきあいも深い。「うれしいのは株主総会後の社長を囲む懇親会で、世界情勢の話を聞くときでした。私も外国が好きで、20回くらいヨーロッパに行っています。懇親会の翌日には12、3人でゴルフもして楽しかった」。

鷲津会長の目には、タカラベルモントが95周年で建設したTB―SQUAREも、秀隆社長の世界への発想だと映る。「情報を世界に発信しようというのですから、素晴らしい。夢があるじゃないですか。情報を求めに世界から日本に来てくださいという考え方はいいなと思います。創業者の五訓じゃないけど、どんどん情報を発信して形にしてほしい」。

取材日:2016年11月16日

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