100th ANNIVERSARY タカラベルモント株式会社

株式会社理容米倉 取締役 米倉宏 会長 ずっと「タカラさん」にお世話になってきた

学校造り。「吉川さんに相談しなさい」

「吉川秀信社長に最初にあったのは、借金のお願いに行ったときでした」

戦後、食料さえ十分に行き渡らない日々が続いていた昭和21年4月、東京で全国理容連盟が設立された。そのときのスローガンが「理容の復興は教育から」。米倉会長はそんな状況で、教育を重視したことを「凄い」という。それから12年後の昭和33年、米倉会長の父、近さんが中央理美容専門学校を法人化する。

「私が米倉に入ったのは28年ですが、親父はそのころ、どうしたら校舎が造れるかと、頭を抱えてました。理容師になるには理容学校を出なきゃならないという法律改正の運動を全国の賛同を得てやったけれど、学校にするにはまず校舎を建てなければなりません。理容仲間に相談すると『吉川さんに相談したらどうだ』と言われたそうです」

 

人への信頼。「これが大阪のやり方か」

近さんは大阪のタカラベルモントの本社に足を運んだ。米倉会長も同行した。玄関に着くと、すでに吉川秀信社長と番頭が待っていた。「今でもはっきりと覚えているのですが、職人だった父は最初に『借金のお願いに来ました。理容の学校を造る資金ですから高い金利もお支払いできないけれど、貸してもらえないでしょうか』と打ち明けました」。驚いたのはそのときの吉川の反応だったという。「あなたがここでそんなにお辞儀をすることではない。あとは番頭に任せましょう」と昼食に誘ったという。

「大阪のやり方に感心しましたね。東京だったら、いつ、どこで、どんな風にそのお金を使うのかと聞くでしょう。ところが、大阪では番頭さんが全部仕切って、主人はさっと話を切り上げる。すごいパンチを受けたようで、勉強になりました」。米倉会長は、大阪グランドホテルに開店する仕事の話があり食事には行かなかったが、話を終えて帰ってきた父の感動した姿を覚えている。「すでに他社で決まっていた大阪の新店の椅子をすべてタカラにしろと言うんですね。父は『ものは作る人で決まるんだ。あの人格で悪いものを作るはずがないだろう、宏』と言いました」

 

店の椅子を次々と「タカラ」に更新

  大阪の新店の椅子のために工場にも出向いた。さらに近さんは東京の銀座の椅子も全部タカラベルモントに切り替えた。「米倉が使う椅子」の評判はたちまち東京の理容業界を席巻し、有名店が次々とタカラベルモントに切り替えた。

米倉近さんは1959年、ニューヨークで開かれた理容の国際大会に審査員として招かれ、米倉会長は日本人として初めて国際競技会に出場した。「吉川(秀信)さんの推薦でした。日本からアメリカまではプロペラ機だったのに、向こうに着くとジェット機。つくづくアメリカはすごい国だなあと思いました。私が出場したコンクールでは頭を刈った後、とにかく会場を歩き回って写真を撮りました」

「その後も学校のことはずーっと、タカラベルモントに面倒をみてもらっています。お世話になりっぱなしです。田中角栄さんが首相当時に改装した迎賓館の理容室、日本の理容業界で初めての海外店舗をオランダのアムステルダムに出したときも協力してもらいました」

2代目の秀一社長からは、1970年の日本万国博覧会に、タカラベルモントがパビリオンを出す話を情熱的な語り口調で聞いた。また吉川(秀信)社長は「親父がなくなったとき、自宅まで来て、本門佛立宗の長々としたお経をあげてくださり、私は涙が出た」という。

 

理容を品格ある文化にしないと

少し活気がなくなっている理容業界。米倉会長は、危機感を募らせる。「競技会をしても、いつまでたっても自分たちで1等、2等を決めてるだけ。理容を品格のある文化として位置づけなくてはなりません。ヘアショーも、お客さんからその髪型にしてくれと頼まれるものじゃないと。理容の必要性をもっと訴え、求められる理容にしていかないとなりません」

 

父 近氏のように

父 近さんが大好きで誰よりも大事にし、尊敬してきたと自負する米倉会長。その父は12歳から理容の道で、お客様を神様として感謝し、大勢のお客様から沢山学んだと述懐する。「吉川(秀信)さんもその大事なお一人でした。」そしてもう一人、松下幸之助氏も顧客であり、二人をひきあわせたのが近さんだった。この3人が晩年になってようやく時間ができ、ふた月に一度「三人会」を開き、「三人とも丁稚出身」と言って楽しみにしていた。「時には話が尽きず、泊まり込んだりしました。その父のような愉快な最晩年を過ごすことが、息子である私の夢です。」

 

 

もうひとつのインタビュー動画

取材日:2017年2月1日

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